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【編集部厳選】日本橋駅 × 史跡のおすすめスポット18選!

目次

三井本館

東京都中央区にある三井本館は、史跡として知られています。建物はトローブリッジ・アンド・リヴィングストン社(米国)とワイスコッフ・アンド・ピックワース社によって設計され、1929年に竣工しました。かつては三井財閥の本拠地であり、現在は三井不動産が所有しています。越後屋の跡地に建てられたこの建物は、團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場にもなった歴史的な建築物です。旧三井本館は1902年に竣工しましたが、1923年の関東大震災で被災しました。また、1945年から2年間は連合国軍最高司令官総司令部に一部が接収されていました。

【公式サイト】https://www.mitsuipr.com/sights/historic-places/06/
【住所】東京都中央区日本橋室町2丁目1-1

渋沢栄一像

渋沢栄一像は、東京都千代田区大手町にある史跡であり、彫像でもあります。渋沢栄一は実業家や慈善家として活躍し、日本資本主義の父とも呼ばれています。彼は、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で生まれ、豪農の家庭で育ちました。彼は北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行をしながら勤皇志士と交友を結びました。江戸時代、彼は農民から武士に転身し、幕臣となりました。彼は、徳川昭武の随員としてフランスを訪問し、商法会所を設立するなど、多くの業績を残しました。渋沢栄一像は、常盤橋公園にあり、彼の功績をたたえるために建てられました。

【住所】東京都千代田区大手町2丁目7-2 常盤橋公園

東京駅丸の内駅舎

東京都千代田区にある東京駅・丸の内駅舎は、赤レンガ造りのレトロな雰囲気が漂う史跡です。平成24年に復原され、国指定の重要文化財に登録された有名な駅舎で、オランダの首都アムステルダムにも似た外観の駅舎が存在するとのこと。丸ビルの5階テラスからは、より広い視界で駅舎の全体像を望むことができます。

【住所】東京都千代田区丸の内1丁目9-1丁目-9

西郷隆盛屋敷跡

東京都中央区にある「西郷隆盛屋敷跡」は、明治維新の元勲である西郷隆盛の屋敷跡であり、史跡として知られています。明治時代には約15名の書生が住み、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたとされています。西郷隆盛は維新後、鹿児島にいたが、1871年に新政府から請われて上京し、参議に就任。留守政府首班として学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。また、1873年には朝鮮との国交問題が緊迫し、征韓論が高まる中、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉にあたり、問題の解決に尽力しました。

【公式サイト】https://www.city.chuo.lg.jp/bunka/shisetsu/kankoujouhou_center.html
【住所】東京都中央区日本橋人形町1丁目6-3

京橋記念碑

「京橋記念碑」は、東京都中央区銀座にある展望台と史跡があるスポットです。かつては京橋川が流れ、中央通りに木造の公儀橋が架けられ、日本橋と並ぶ名橋でした。欄干の柱頭部には擬宝珠が飾られ、竹河岸が形成されました。1875年には石造りのアーチ橋に架け替えられ、銀座レンガ街が完成しました。現在は展望台からは銀座の街並みを一望でき、歴史的な建造物を見ることができます。

【住所】東京都中央区銀座1丁目2-4

鍛治橋跡

「鍛治橋跡」は、かつて江戸城の外濠であった場所にある史跡です。1629年に築造され、門に附属する鍛冶橋は現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。江戸時代には御用絵師の狩野探幽の屋敷や大名屋敷が立ち並び、幕末には津山藩松平家、土佐藩山内家が上屋敷を設けていました。1873年に鍛冶橋門は桝形石垣を残して撤去され、1876年にはアーチ橋として再建されましたが、戦後には外堀が埋め立てられ、橋も姿を消しました。

【住所】東京都中央区八重洲2丁目4 都 道 405 号線 丁目

道三橋跡

「道三橋跡」は、東京都千代田区大手町にある史跡で、江戸時代に造られた人工の水路「道三堀」の一部である「道三橋」が架かっていた場所です。徳川家康の命によって開削され、江戸城から江戸湊まで続く運河として使用されました。南岸には幕府の侍医、曲直瀬家の屋敷があり、道三堀と呼ばれました。1909年に埋め立てられ、現在は道路として利用されています。かつては道三橋や銭瓶橋などが架かっていた場所であり、歴史的な価値があるスポットです。

【住所】東京都千代田区大手町2丁目1

京橋大根河岸青物市場跡の碑

「京橋大根河岸青物市場跡の碑」は、東京都中央区京橋にある史跡であり、ランドマークでもあります。かつては、京橋川の水運を利用して野菜の売り場が設置され、大根の入荷が多かったことから「京橋大根河岸市場」と呼ばれ、明治時代には「京橋青物食物河岸」として規模を拡大し、青物・菓物の他、魚類・乾物も扱っていました。大正時代には関東大震災により甚大な被害を受けましたが、卸問屋・仲買による組合の努力により問屋68軒、仲買105名に達しました。しかし、1935年に築地に東京卸売市場が開業し、それに伴って移転しました。現在は、その跡地に碑が建てられ、当時の歴史を伝えています。口コミには、当時の市場の歴史や規模についての情報が記載されています。

【公式サイト】https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/kohokotyo/koho/h28/281011/fre/index.html
【住所】東京都中央区京橋3丁目4

北町奉行所跡

「北町奉行所跡」は、江戸時代に江戸市中の行政・司法・警察など幅広い分野を担っていた北町奉行所があった場所で、東京都千代田区丸の内1丁目8に位置しています。1806年に呉服橋御門内に設置され、屋敷の鬼門・艮(北東)の方角を護る呪術的な意味があるとも言われています。現在は史跡として残されており、江戸時代の面影を感じることができます。

【住所】東京都千代田区丸の内1丁目8

伝奏屋敷跡

「伝奏屋敷跡」は、東京都千代田区丸の内にある史跡です。かつては武家伝奏の宿舎として使用され、勅使・院使などが宿泊していました。隣には評定所の建物があり、江戸幕府の最高司法機関として重大事件を扱っていたとされています。現在はその跡地が公開されており、歴史的な建物や庭園を見学することができます。

【住所】東京都千代田区丸の内1丁目4

電話交換創始之地

「電話交換創始之地」は、東京都千代田区丸の内にある史跡です。1890年に公布された「電話交換規則」により、東京と横浜に電話交換局が設置され、東京市内及び横浜と東京間で電話交換が開始されました。当時、横浜電話交換局は4名が電話交換に対応し、東京市の加入者は155人、横浜市の加入者は42人で、電話所(公衆電話)数16でした。市内通話の料金は年間45円の定額制でした。この場所は、日本の電話交換の歴史において重要な役割を果たした場所であり、多くの人々にとって興味深いスポットとなっています。

【住所】東京都千代田区丸の内1丁目4

歌川広重住居跡

「歌川広重住居跡」は、江戸時代に活躍した浮世絵師・歌川広重の住居跡であり、東京都中央区京橋に位置しています。歌川広重は、幼少期より初代歌川豊国に入門を考えていたが、歌川豊広に入門し、「東海道五十三次」を発表するなど、多くの作品を手掛けました。1860年頃には、日本橋大鋸町(現在の京橋)に住居があり、その後常磐町に移転しました。風景を描いた木版画で人気を集め、西洋の画家にも影響を与えたとされています。現在は史跡として残されており、歴史に触れることができます。

【住所】東京都中央区京橋1丁目9

電燈供給発祥の地

「電燈供給発祥の地」は、東京都中央区日本橋茅場町にある史跡です。1887年に東京電力によって建設された日本初の火力発電所であり、周辺地域の電燈供給を開始しました。発電設備は直立汽缶と横置汽機を据付け、25キロワットのエジソン式直流発電機1台を運転しており、配電方式は電圧210ボルト直流三線式でした。工部大学校の講堂において、日本で初めての電灯が点灯してから9年後に建設されたこの発電所は、日本における配電線による最初の電燈供給の起源となりました。

【公式サイト】http://www.chuo-kanko.or.jp/
【住所】東京都中央区日本橋茅場町1丁目3-10

尾台榕堂之碑

「尾台榕堂之碑」は、幕末の名漢方医・尾台榕堂の功績を讃える史跡です。尾台榕堂は、将軍・徳川家茂の侍医を務めたことでも知られ、江戸の二大名医の一人としても称えられました。診療所前には茶屋が出来たとも言われ、浅田飴の創業者・堀内伊三郎も浅田家の書生で水飴の処方を譲り受け、浅田飴を創業したとされています。東京都中央区八重洲に位置し、尾台榕堂の功績をたたえる碑が建てられています。

【住所】東京都中央区八重洲2丁目1-6

堀部安兵衛武庸の碑

「堀部安兵衛武庸の碑」は、東京都中央区八丁堀にある史跡です。江戸時代に活躍した武士で、赤穂浪士四十七士の一人である安兵衛の功績をたたえたものです。安兵衛は、越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男として生まれ、天性の剣術の才を発揮し、堀内正春の道場で免許皆伝を取得しました。また、菅野六郎左衛門が高田馬場での果し合いの際、武庸は助太刀として相手方を斬ったことでも知られています。堀部安兵衛武庸の碑は、そのような安兵衛の生涯を紹介するものであり、歴史に興味のある方にはおすすめのスポットです。

【住所】東京都中央区八丁堀1丁目14-7

蛎殻銀座跡碑

「蛎殻銀座跡碑」は、江戸時代に銀座が移転し、不正行為が発覚した後、蛎殻町に移転した歴史的な場所です。ここでは南鐐二朱銀鋳造が再開され、幕府による統制が強化されました。また、御用達町人による請負事業から事実上幕府の直轄事業となりました。江戸時代の貨幣鋳造の歴史を知ることができます。

【住所】東京都中央区日本橋人形町1丁目17-8

一石橋迷子しらせ石標

「一石橋迷子しらせ石標」は、東京都中央区八重洲にある史跡です。江戸時代には繁華街として発展し、迷い子が多く出たため、地元西河岸町の人々によって1857年に建てられました。しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られ、上部に窪みがあります。使用法は、左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという歴史があります。

【公式サイト】http://www.syougai.metro.tokyo.jp/bunkazai/heritagemap/chuo/chuo03.html
【住所】東京都中央区八重洲1丁目11

鎧の渡し跡

「鎧の渡し跡」は、東京都中央区日本橋兜町にある史跡です。江戸時代には鎧の渡し場として利用され、1872年には鎧橋が架けられて渡しは衰退しました。平安時代には源頼義がここで暴風逆浪に遭い、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げ、無事に渡ることができたという伝説があり、以来ここを鎧が淵と呼んでいます。また、平将門が兜と鎧を納めた場所とも言われています。

【住所】東京都中央区日本橋兜町1-1

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